【ネタバレあり】『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観ました。
【はじめに】
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズの完結編となる
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下、『シン・エヴァ』)
を鑑賞してまいりました。
封切りから2週間、ネタバレ解禁ギリギリでの滑り込み鑑賞です。
春休み中ということもあって学生グループも多く、
7~8割くらいの座席が埋まっていた記憶。
鑑賞後は「ようやく観られた、見届けられた」という満足感と
「終わってしまった」という喪失感、そして
「まだわからない、もっと観たい。読み解きたい」という感情に襲われて
かなり放心状態で劇場を後に。
『序』から14年という作中で登場人物たちが過ごした日々の結実、
そして『エヴァ』というアニメの金字塔作品に刻まれた節目。
決して熱烈なファンではないと自負してはおりますが、
これらに立ち会えたことに、感慨のようなものを抱きました。
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こちらの記事はあくまで「僕個人の雑感」であり、
伏線だとか考察だとか暗喩だとか…そういう観点からの記述はかなり乏しいです。
そういう記事を期待していた人はごめんなさい。
【僕と映画】
知っての通り島は対人恐怖症気味です。エヴァ風に言えば「他者への恐怖」。
特に人混みとかは大の苦手。
周囲を見知らぬ学生グループに囲まれ、
劇場のロビーで待ってる間にも幾度となく逃げ出したくなりました。
なので、僕にとって「映画を見に行く」というのは、
単純に「映画館に行って作品を見て帰ってくる」という行為以上の
重大な予定なのです。
それ故に僕は「映画を見に行く」という行為に対して人一倍腰が重く、
これまで観に行こうとしていた映画を幾度か見送っています。
某怪獣王とか某無限列車とか。
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実は『シン・エヴァ』も、当初はそんな作品群に並ぶ予定でした。
前述のとおり、僕は『エヴァ』の熱烈なファンではございません。
『ヤマト』と同じくらい熱を注いで推しているか?
と聞かれたら間違いなく首を横に振ります。
ただ今回、あまりにも周囲の人たちの鑑賞率+絶賛率が高かったこと、
そして僕のマリ推しを知っている相互さんにおススメされたことから、
(1度は土壇場でバイトとダブルブッキングして断念したものの)
重すぎる腰を遂に持ち上げ、2年ぶり(一人暮らしを始めてからは初)の
映画鑑賞へと足を運ぶ決意を固めたのです。
自分語りはここまでにして本編の話するか。
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というわけでここからはネタバレ注意です。
未鑑賞の方はブラウザバックをお勧めします。
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【優しさを拒む少年】
『破』のクライマックスで"ニアサードインパクト"を起こしたトリガー・碇シンジ。
世界を崩壊へと誘ってしまった彼の罪は決して贖いきれるものではなく、
『Q』においてはAAAヴンダー艦内における彼への冷遇と、
彼に手を差し伸べてくれた少年・渚カヲルを(紆余曲折あれど)
自らの行動で殺めてしまう―――という出来事を通じて、
彼の罪への『罰』が存分に描かれました。
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一方『シン・エヴァ』では、
『Q』クライマックスにおける"フォースインパクト・始まりの儀式"から生き延び、
深紅の荒野を彷徨っていたアスカ、レイ、そしてシンジの3人が何者かと遭遇。
ニアサード・インパクトを生き延びた人々が暮らす『第三村』での日々が始まります。
『Q』におけるAAAヴンダー乗員らとは対照的に、昔のよしみから
「生きていてくれてよかった」と優しくシンジを出迎えるトウジ、ヒカリ、ケンスケら。
しかし、同様に村の住民たちとの交流の中で『人間らしさ』を深めていく
レイとは対照的に、シンジの胸中は複雑なものでした。
「なんでみんな優しいんだよ!」
『Q』での出来事、そして第三村での日々の中で
自らが重ねた罪と向き合ったシンジは、
村での生活に馴染めず家出した先の廃墟でそう泣き叫びます。
ヴンダーでは自らを拒むミサトさんたちに対して
「訳が分からない」と喚いていたシンジ。
『Q』における悲劇がシンジの『子供らしさ』に起因していたものだとすれば、
第三村での葛藤はシンジが『大人になった』ことの証拠かもしれません。
それでも、レイとの離別やトウジやケンスケとの会話、
その中で知ったミサトやリョウジの過去―――
第三村での出来事がシンジを『ガキシンジ』から成長させ、
自らの意志でヴンダーに乗り込む…。
***
少しだけ自分語りに戻りますが、実は『シン・エヴァ』を見るにあたって
満足いく予習ができませんでした。
「旧劇は無理でもせめて新劇場版3部作は全部見ておきたい…」
という計画とは裏腹に、『序』しか見ることができないという体たらく。
この辺りの展開を整理していて脳裏に浮かんだのは、
まさにその『序』でした。
第5の使徒との戦闘後、不貞腐れてミサトの家を出ていくシンジ。
「なぜ人に嫌われてまでエヴァに乗らなくてはならないんだ」
そう自問していたシンジが、
ミサトからリリスや本部自爆装置の存在を告げられ、
トウジやケンスケの言葉に背中を押され、
「もう一度エヴァに乗ってみます」と再起する―――。
『Q』でのカヲル君の「縁が君を導くだろう」という言葉も、
どことなくこのシーンに繋がっている…というのは深読みしすぎでしょうか。
【渚カヲルの内面】
長年『人知を超えた超然的な存在』として描かれていたカヲル君の内面が描かれたのも
個人的には衝撃的でした。
「シンジ君を幸せにすることで自分を満たそうとしていた」
カヲル君の中にも利己的な、人間臭い内面があったんだ…と。
『序』での「会える時が楽しみだよ」、
『破』での「今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ」という言葉が、
『シン・エヴァ』を観た今では違って聞こえてきます。
***
渚カヲルという少年が"完璧な碇シンジ"としてデザインされた…という裏話は
かなり有名だとは思いますが、
『シン・エヴァ』を観た僕の純粋な感想としては、
「シンジへの好意を捨てなかったもう一人の碇ゲンドウ」…のようにも思えました。
加持さんとの対話ではズバリ「渚司令」と呼ばれたり、
「渚は海と陸の狭間、使徒と人間を繋ぐあなたらしい名前だ」との発言も
ネブカドネザルの鍵で望んで人間を捨てた=「人間であり使徒でもある」ゲンドウと
どことなく繋がる部分があるように思えて…。
***
あと、カヲル君との対話の中で紡がれた
「もう泣かないんだね」
「泣くのはやめたよ、泣いても救えるのは自分だけだから」
というやりとり。
『新劇場版』シリーズの中でのシンジ君の成長を感じると同時に、
自分を省みた時にも一番胸に刺さる言葉でした。
【アスカとの和解】
"ヤマト作戦"決行直前、耐爆隔離室に設置されたシンジの居室を訪れ、
アスカはシンジに尋ねます。
「あの時私がアンタを殴りたかった理由、わかった?」
「責任を取るのが怖くて、自分で何も決めなかったから」
あの時シンジ―――の眼前に叩きこまれたあの拳は、ヴィレの一員としてではない、
紛れもなく『式波・アスカ・ラングレー』という一人の人間としての一撃。
"「世界がどうなっても綾波だけは助ける」―――シンジはそう叫んだ。
自らが第9の使徒に取り込まれたあの時には何もしてくれなかったのに。"
旧劇での「何よ、私の時は出さなかった癖に…!」のリフレインとも取れますね。
『ガキシンジ』が、共に乗艦してくれた。
かつてのように誰かに強制されたからではなく、自分自身の願いのために。
ああ…書けば書くほど、
ラストシーンで駅にシンジを迎えに来るのはアスカであってほしかった…という
想いが強まってしまう。
…失礼、カヲマリ派の本音が出てしまったのでこの話題はここまでにしましょう。
【シン・エヴァとヤマト2202】
ここからはヤマトファンっぽいことを話します。
本編でも随所に『ヤマト』要素が散りばめられていましたが、
今回はそこには言及しません。
そこ、気づけなかっただけとか言うな。
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『シン・エヴァ』のラストカットは、
庵野監督の生まれ故郷である山口県・宇部新川駅の空撮でした。
駅からシンジとマリと思しき2人が駆けだしてきて、
そのまま駅周辺の街並みを映しエンドロールへ…。
ゲンドウの言葉を借りれば
「虚構と現実を等しく受け入れる人間」たちに対する、
「君らも現実に戻りなさい」…的なメッセージと受け取れます。
旧劇では「アニメばっかり見てないで現実見なさい!」と、
玄関から蹴り出されるような描写だったのに対し、
『シン・エヴァ』の同シーンには(ミサトさんではありませんが)
「いってらっしゃい」…と優しく背中を押してもらえるような、
そんな温かい印象がありました。
決して観客を置いてけぼりにせず、見送ってくれるような。
***
このシーンを見た時、僕は「2202」最終章の劇場パンフに掲載されていた
シリーズ構成の福井晴敏氏のインタビューを思い起こしていました。
「劇場を出た時、景色が今までとは違って見えるかもしれない。
そういう作品を、我々は目指しました」
***
片や物語の流れの話、方や映像演出の話。
お門違い、並べて論じることがナンセンスであることは重々承知です。
『シン・エヴァ』を鑑賞し終え、パンフレットを買い、
劇場のエントランスをくぐった瞬間。
自分がまだ『シン・エヴァ』の世界にいるような気がしました。
もちろん「アニメの世界という閉塞した空間にまだしがみついている」
という意味ではなく、
「この現実世界が『シン・エヴァ』の世界の行きつく先だった」…。
そんな気がしたのです。
道路を挟んで反対側にはレイやアスカが歩いていそうだし、
タクシーを待っていたら後ろからマリが目を塞いで
「だーれだ?」と問いかけてきそうな。
旧劇場版が「虚構と現実の断絶」を掲げて完結した物語だとすれば、
新劇場版は「虚構と現実の融合」を以って完結した物語なのではないか。
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「2202」もそんな物語だった―――そう感じています。
「2202」では、打算や妥協の果てに紡がれた合理的で残酷な現実を、
愛や命が紡いだ未来のために見直す―――そんな選択を迫られる物語でした。
「ヤマト」という虚構を通じて、現実を問い直す物語。
メカデザインがどうとか、「ヤマト」作品としてどうとかそういう話は抜きにして、
僕は「2202」をそう捉えています。
もちろん現実はアニメのようには運びません。
現実に抗うために動いてもそれに都合よく帯同してくれる人はいないし、
綺麗ごとを掲げてそれが通る世界なら誰も苦しみません。
それでも、どこかで背中を押してくれる。
沖田さんや土方さんの言葉に背中を押された経験、
ヤマトファンの皆さんには絶対あるはず。
***
「虚構と現実の融合」は、決してそれら二つを同一視することではない。
むしろこの二つを別物として捉えているからこそ目指せる境地だと、
僕は思っています。
「フィクションはきっと、こういう時に己を見つめ直すためにあるのです」
福井晴敏氏は第六章のパンフレットでこう述べています。
虚構は決して逃げ場所などではなく、現実を映し出す鏡。
そこに結ぶものは、虚像かもしれない。
それでも、その虚像に何かを感じ取れるのは間違いなく現実を生きる―――
虚構と現実を等しく受け入れることのできる人間だけ。
…書いてて恥ずかしくなってきたのでこの辺にします。
***
最後になりますが、足掛け15年近くに渡り『新劇場版』シリーズを作り続けた
庵野監督はじめスタッフの皆様。
そしてこのご時世にも作品を届けるべく
尽力してくださった全ての皆様に、
自己満足ではありますが心から感謝いたします。
本当にありがとうございます。
…さて、次は"ヤマト"の番ですね。
俺も微力を尽くすとしますか。[終]